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零.参
その日は、脳裏に焼きついたはじめてみた彼女の笑顔とともに眠りに付いた。風邪は僕の身体にしぶとくはり付き、まだ離れてくれそうもなかった。
翌日、午前中の講義は休み、家でまったりと過ごした。
巨峰のゼリーと牛乳で朝食を済ませ、テレビをつけながら珈琲を飲む。ニュースキャスターが、風邪の予防法を紹介していた。僕にとってはもはや手遅れである。
「外から帰ってきたら、手をよく洗い、うがいも忘れずにしましょう――」
少し早めに家をでて、大学の構内にある喫茶店でパスタを食べていると、友貴哉【ゆきや】が現れた。
「よう。家に電話してもいないから、心配したよ」
「ああ、悪かったな」
「なんか、機嫌が良さそうだな」
僕の前の椅子に腰掛けながら、友貴哉は言った。やはり、数少ない友人の中でも特に仲が良いだけのことはある。お見通しだった。
パスタを食べながら聞こえないふりをしていると、友貴哉は「ああっ」と言った。驚いて顔をあげる。
「あの後、コンビニに行ったな?」
やはりお見通しであるが、まだ半分だ。僕はパスタを啜【すす】りながら頷いた。
「ははは。彼女が言っていたよ。『昨日、先輩を御見掛けしました』ってさ」
「え? 言っていたのか?」
友貴哉はニヤリと頷いた。
『てらしま本舗』は、現在はもう卒業した寺嶋さんという人が開設した写真サークルだ。大学内にあるサークルの中でもわりと古く、由緒あるサークルだそうだ。
外部から注文が届いたりすることもあるそうで、三回生の僕は、何度か外部用の写真を撮りに行ったこともある。きちんとお金は貰うし、結構しっかりとしたサークルなのだ。
そして、この少人数老舗写真サークル『てらしま本舗』は、僕と友貴哉と彼女の所属するサークルである。
午後の講義が終わり、陽もすっかり落ちた頃、僕と友貴哉は『てらしま本舗』に行った。
『てらしま本舗』には、愛しき黒髪の乙女こと、砂原【さはら】さんしかいなかった。
扉が開いて、僕らが入ってくるなり、「先輩!」と叫び、僕らのほうへぽてぽてと駈けてきた。
「先輩、隅田【すみだ】先輩が心配なさっていましたよ。もう大丈夫なんですか?」
隅田というのは友貴哉の苗字である。
「ああ、まあ、なんとか」
砂原さんは安堵の表情で「よかったー」と言った。
嬉しかった、というのは、言うまでもない。
隣では友貴哉がニヤニヤしている。
その日は、脳裏に焼きついたはじめてみた彼女の笑顔とともに眠りに付いた。風邪は僕の身体にしぶとくはり付き、まだ離れてくれそうもなかった。
翌日、午前中の講義は休み、家でまったりと過ごした。
巨峰のゼリーと牛乳で朝食を済ませ、テレビをつけながら珈琲を飲む。ニュースキャスターが、風邪の予防法を紹介していた。僕にとってはもはや手遅れである。
「外から帰ってきたら、手をよく洗い、うがいも忘れずにしましょう――」
少し早めに家をでて、大学の構内にある喫茶店でパスタを食べていると、友貴哉【ゆきや】が現れた。
「よう。家に電話してもいないから、心配したよ」
「ああ、悪かったな」
「なんか、機嫌が良さそうだな」
僕の前の椅子に腰掛けながら、友貴哉は言った。やはり、数少ない友人の中でも特に仲が良いだけのことはある。お見通しだった。
パスタを食べながら聞こえないふりをしていると、友貴哉は「ああっ」と言った。驚いて顔をあげる。
「あの後、コンビニに行ったな?」
やはりお見通しであるが、まだ半分だ。僕はパスタを啜【すす】りながら頷いた。
「ははは。彼女が言っていたよ。『昨日、先輩を御見掛けしました』ってさ」
「え? 言っていたのか?」
友貴哉はニヤリと頷いた。
『てらしま本舗』は、現在はもう卒業した寺嶋さんという人が開設した写真サークルだ。大学内にあるサークルの中でもわりと古く、由緒あるサークルだそうだ。
外部から注文が届いたりすることもあるそうで、三回生の僕は、何度か外部用の写真を撮りに行ったこともある。きちんとお金は貰うし、結構しっかりとしたサークルなのだ。
そして、この少人数老舗写真サークル『てらしま本舗』は、僕と友貴哉と彼女の所属するサークルである。
午後の講義が終わり、陽もすっかり落ちた頃、僕と友貴哉は『てらしま本舗』に行った。
『てらしま本舗』には、愛しき黒髪の乙女こと、砂原【さはら】さんしかいなかった。
扉が開いて、僕らが入ってくるなり、「先輩!」と叫び、僕らのほうへぽてぽてと駈けてきた。
「先輩、隅田【すみだ】先輩が心配なさっていましたよ。もう大丈夫なんですか?」
隅田というのは友貴哉の苗字である。
「ああ、まあ、なんとか」
砂原さんは安堵の表情で「よかったー」と言った。
嬉しかった、というのは、言うまでもない。
隣では友貴哉がニヤニヤしている。
零.弐
僕が彼女と初めて喋ったのは、初冬の頃だった。前にもある通り、初めて彼女を見たのは初秋だ。その間、僕は彼女の姿を見つけては舞い上がり、見当たらないとなれば探したりして過ごしていた。誠に空虚である。
彼女と話すことができたきっかけはこうだ。
暫く続いた雨は止んだものの、重苦しい灰色の物体が空を覆い、晴れる気配は全く見せず、寒い。そんな日だった。
雨の所為でひいた風邪がやっと快復し、二日振りの大学となったその日、僕の心はいつか見た煉瓦道の彼女のように軽く舞い踊っていた。理由は無論、彼女に会えるかも知れないからだ。
しかし、まだ本調子ではなかったらしく、途中でダウン。友人の家で寝込むハメになってしまったのだ。友人の友貴哉は、その日の講義は終わったらしく、僕が体調を崩した午後二時頃には既に家に居た。愛用の携帯電話で彼に電話すると、「じゃあ、今から行くよ」と言って、車を出してくれたのだ。
黄昏時となって家まで帰れるほどに快復し、雨が振っていたので友貴哉に車を出してもらった。家に着き、友貴哉に礼を言うと彼は帰ったが、僕は一度家から傘を取り出し、そのままコンビニへ行った。
思えば、あのときコンビニに行って本当に良かったと思う。言うまでも無く、愛しき黒髪の乙女がそこに居たからである。
コンビニに入ると、僕は真っ直ぐゼリー等が置いてある棚へ向かった。こういうときは消化の良い爽やかなものに限る。籠に数個のゼリーを入れた後、牛乳が無いことを思い出し、飲料品売り場へ行った。明日の朝に食べるパンを買うか否か決め兼ねていると、「あら、先輩?」と、高い声がした。
驚いて声がした方を向くと、なんと、あの愛する黒髪の乙女が立っているではないか! 僕は慌てふためいた。何故彼女は僕の存在を知っているのだろうか。遂に僕は、「俺を知っているの?」と訊いてしまった。
「あら、やっぱり先輩ですね。私、同じサークルなんですよ」
驚いた。何故彼女が僕と同じサークルにいるんだ? そんなの、知らない。
「ああ、そうだ。先輩、風邪だったんですよね? もう治ったのですか?」
無垢な笑顔を見せ、彼女は僕に訊いた。「あ、ああ」と、曖昧に頷くと、彼女は、「良かった」と言って、僕の籠を見た。つられて僕も籠を見る。ゼリーが数個。一リットル入りの牛乳が二本。ゼリーを見て、彼女が表情を変える。
「ゼリーを買うなんて、まだ全快ではないじゃないですか」
「あ、ああ。今日、また少し体調を崩してしまってね」
彼女の何処か柔らかな気迫に負け、僕はとうとう本当のことを言った。
「大丈夫なのですか?」心配そうに訊ねる彼女に、僕は頷き、こう訊いた。
「そういえば、なんで同じサークルだって知っているんだ?」
彼女は、微笑みながらこう答えた。
「サークルに入るときに見た名簿にあったのですよ」
名簿か。名簿があったか。
彼女とは家が反対方向らしいので、コンビ二を出ると直ぐに分かれてしまった。ぬう、無念。
コンビニと家を繋ぐ徒歩七分程度の道は、街灯に照らされた銀の雨がさらさらと落ち、地面を濡らしていた。どうやら霧雨らしい。僕の青い傘は霧雨に濡れ、雫が一定の間をおいてぽたぽたと垂れ落ちる。
しかし、僕の目にそんなものは入っていなかった。
あるのは先程の彼女の微笑のみで、目を瞑って歩くかのように家路についていた。恐らく、この道なら実際に目を瞑っていても家に帰れるだろう。毎日のように通っているのだ。
家に着くと、粗末なソファに座り、白桃のゼリーを開けた。コンビニで貰ったスプーンをゼリーに滑らせ、口に入れる。初冬ではあるが、懐かしき初夏の味に、僕は笑みを浮かべた。少し怪しい。
そして思った。あ、パンは買わなかったのか。
以上が、僕と彼女が初めて会話した経緯である。
先に言っておくが、これは実話なんかじゃない。
憂鬱? −零−
零.壱
彼女は本当の事しか知りたがらなかった。
彼女が『ジュンスイ』だったからか、それとも、本当のこと意外は『クダラナイ』と思っていたのか、それは解らない。
恐らく、誰にだって解らないことだろう。勿論、彼女の本当の気持ちは、彼女以外の人間が解る筈は無いのだ。
僕は、彼女は『ジュンスイ』なんだと思う。そうでなければ、『憂鬱』が見える筈は無いからだ。現に、僕は、自分と彼女と、それからもうふたり以外に『憂鬱』を見える人間を知らない。
うなじが見える程に短く切った漆黒の重たげな髪を揺らし、ある秋の初め、彼女は僕の前を歩いていた。クリーム色のふんわりとしたワンピースを初秋の風にはためかせ、彼女がコツコツと音を鳴らしながら歩いた大学内の煉瓦の道。今でも鮮明に思い出せる。
クリーム色のふんわりとしたワンピース。その下に着た、群青色に白い水玉の長袖のTシャツ。重たげな漆黒の短い髪。ワンピースの上から羽織った緑色のチュニック。灰色のスパッツ。優しげな色合いの小さな肩掛け鞄。コツコツと煉瓦を鳴らした、黒いパンプス。右腕でかしゃかしゃと音を立てるブレスレット。全てが懐かしい。
大学の中にある赤褐色の煉瓦の道の両側を彩るのは、まだ青い木々の葉。その中を舞うように軽やかに歩く彼女。他の人もその辺りにいたけれど、真ん中を軽やかに歩く彼女に、僕は釘付けだった。
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